すっかり夏の風物詩となった富士登山渋滞の『光の道』。
最近、自分に対して失望する事が多い。
今のところヤケクソにならず自制心を保てているが、あまり気持ちの良い状態ではない。
こんな状態を脱するために山歩きだ。
目的地は富士山。
五合目から登るのが一般的だが、あえて一合目から日本のてっぺんを目指す。
富士山には『富士講』と呼ばれる山岳信仰があり、麓の北口本宮冨士浅間神社が起点となる吉田口登山道が本来の姿であり修験道でもある。
五合目からの登山が一般的となった現在の吉田口登山道も、本来は山岳信仰に基づく修行の場だった訳だ。
こんな山岳信仰や精神修行に興味のある私。
今の私の状態には打って付けだろう。
ただ、特定の宗教には属さず、深い信仰心を持っている訳でもない。
要は、脳内に渦巻くごちゃごちゃした思考を、歩きによる疲労で削ぎ落とし、素の状態に戻したいのだ。
良く言えば『魂の洗濯』。
社会的には身勝手な無謀登山と言われるかもしれないが、こんな理由で入山する人間もいるのです。
参考までに。
※山行はヤケクソにならず、準備を怠らずクールな行動を心掛けましょう。
富士山駅。もっと歴史感ある駅かと勝手に思っていました。
新宿からバスで富士山駅へ。
途中、高速道路での事故渋滞で到着が遅れ、「電車にすれば良かった・・・」と、早くも失望ポイントを取得。
少々暗い気持ちで北口本宮冨士浅間神社へと向かう。
【富士と冨士】
『富』は山そのものを表していると言われ、『うかんむり』と『わかんむり』の使い分けは諸説あります。
『うかんむり』の点を神に見立てて山頂を聖域とする説や、神は人の目では見えない事から点を消して『わかんむり』にする等。
富士山駅から冨士浅間神社までの道程には、かつての富士登山者の参拝や宿泊のお世話をした『御師』が属する建物が点在している。
宿坊や民宿みたいなモノだろうか。
五合目まで道路が整備され便利になった今でこそ通り沿いはひっそりしているが、その歴史ある門構えからは当時の賑わいを感じ取れる。
交通の便が良くなった現代に、あえてこういう宿泊施設を利用するのもオツかもしれない。
冨士浅間神社の参道には石燈籠が並び、ピーンと張り詰めた神社独特の雰囲気が漂っている。
こんな参道に身を置くだけで、たちまち雑念が浄化される気分だ。
うん、悪くない気分になってきた。
静かに参拝して、神社の奥から延びる吉田口登山道へと進む。
【富士山3区分】
古来の吉田口登山道からみた富士山は、『草山』『木山』『焼山』の3つに区分されます。
草山:俗界(冨士浅間神社から馬返し)
木山:俗界から神仏の世界への過渡部分(馬返しから森林限界)
焼山:神仏、死の世界(森林限界から山頂)
吉田口登山道は車道となっているが、平行して吉田口遊歩道なるモノがあった。
舗装道路ではなく山道伝いに富士山を登れるよう、最近整備されたようだ。
アスファルトを歩くより山道歩きの方が遥かに心地好い。
山道を整備された方は、良くわかってらっしゃる。
ありがたく利用させてもらおう。
車道側から頻繁に聞こえてくるエンジン音が玉にきずだが、快適な樹林帯歩きを楽しめる。
利用している人は少なくエンジン音を除けば実に静かだ。
吉田口遊歩道経由で中ノ茶屋、大石茶屋跡とだいぶ歩いて来たが、まだ富士山一合目にすら到達していない。
それでも焦らない。
疲労によって雑念を削ぎ落とす目的で来ているとは言え、オーバーペースで無理に疲れる必要はない。
歩けない程に疲労してしまっては意味がない。
あくまでマイペース。
肝心なのは己の限界を知った上で、淡々と歩き続ける事だ。
淡々と歩いて登山口の『馬返し』に到着。
ようやく富士登山の始まりだ。
入り口となる石造りの鳥居の両脇には、狛犬の代わりなのか合掌している猿の像があった。どうやら御眷属(神の使い)のようだ。
聖域に入る前に一礼して鳥居をくぐる。
まずは緑豊かな樹林帯歩き。
一合目から登るなどと考えてもいなかったので、樹林帯といった新たな富士登山の一面を体感する。
山中には富士講にまつわる案内板や石碑が点在しているのも見逃せない要素だ。
そして、来週には『富士登山競争』なるイベントが開催されるらしく、多くのトレイルランナーが試走に訪れていた。
『富士登山競争』とは、富士吉田市役所前から富士山頂(富士山頂久須志神社)までのタイムを競う山岳マラソン大会だ。
今日の試走でも山頂帰りのランナーは多く、皆さん当然のように走って下山している。
何て足だ。
ちなみに、大会記録は2時間半を切っていると伺った。
まさに、これから同じルートを10時間以上かけて(歩いて)登ろうとしているオレって・・・。
あやうく失望ポイントを取得しそうになったが、こんな超人レベルの話は聞かなかった事にしておこう。
過去の富士登山の歴史を感じながらマイペースでボチボチと歩く。
疲れそうになったら直ぐ様、寝転んで休憩。
本日は一日中歩くスケジュールのため、疲れないようにするのは重要なのだ。
休憩を繰り返しながら、一合目から五合目までの樹林帯を抜ける。
五合目まで来ると、ようやく視界が開け、いよいよ富士山頂が姿を現した。
いわゆる優雅な山容の富士山ではなく、若い活火山としての荒々しい岩山だ。
遠目で見る富士山と、山中真っ只中で見る富士山とでは、印象が真逆になってしまうのは不思議。
さて、これからの予定をたてよう。
小屋泊のツアー登山者や一般登山者の多くは、山頂からの御来光が目的となる。
そのため、深夜1~2時頃からが富士登山(吉田口ルート)の渋滞ピークだ。
すっかり夏の風物詩にもなっている深夜の富士登山は、ヘッドランプなどの照明器具によりジグザグの山道が『光の道』となって浮かび上がる。
遠目では綺麗に見えるこの様子も、岩だらけで狭い山道では、ツアー団体客と一般客とのトラブルで殺伐とする場合もある。
遠目で見る富士山と同じで、実際に現地にいると印象も異なるモノだ。
それはそうと、深夜1~2時の渋滞を避け、早めに登って山頂で待機しておくのが良いだろう。
本日は、街の夜景や満月も浮かび、天気は上々、視界も明確。
この分だと御来光も拝められそうだ。
よーし、早めに山頂へ向かうか。
が、結果的に御来光も見れず、山頂も踏めない散々な結果となる。
旧(元祖?)五合目を過ぎて更に進むと、英・中・韓の言語でアナウンスが流れている現在の五合目と合流した。
登山客はもう宿に到着しているだろう時間帯で、山道は静かかと思っていたが、予想に反して賑わっている。
そのほとんどが海外の登山客だ。
そう言えば、私が入山した一合目からの登山道でも、登山者自体少ないのに単独のアメリカ人には出会っている。
すごいな、世界遺産効果は。
前から後ろから外国語が飛び交う列に混ざり、小柄で小心者の私はより小さくなって歩く。
そんな状況の中、日本人の感覚とその他の感覚の違いを見た気がした。
何となしに出来上がっているルールを守り、周囲に迷惑をかけないように心掛ける日本人と、そんなルールを知ってか知らずか己のルール優先で行動するその他海外の方たち。(ザックリ分け過ぎ・・・)
どちらかが正しいとは言わないが、この夕御飯の時間帯に日本人の姿をほどんど見かけない事に驚かされる。
ヘッドランプを持っておらず、月明かりを頼りに登る方。
短パンでスニーカーといった軽装の方。
両手にコンビニ袋を持って岩場を登る方。
こんな海外の登山客だらけの状況に身を置く日本人的感覚(だと思っている)の私としては、事故にならないかハラハラしっぱなしだ。
そんな心配をよそに、本人たちは至って楽しげなのが何とも言えない。
※海外の方でもしっかりと装備した方は当然います。
しかし、他人を心配している場合ではなかった。
標高が上がるにつれて、心肺機能が弱い私の歩みが遅くなってきた。
ここで無理をして呼吸を乱すと、高山病になる恐れがある事を経験上わかっている。
休憩回数が増え、休憩時間も長くなる。
そうこうしている内に、七合目から山頂にかけて登山渋滞が始まってしまった。
この心肺状態なら渋滞していた方が好都合と思ったが、警戒していた高山病が発症。
吐き気が酷くなり、ほんの一歩が踏み出せない状態にまで悪化してしまう。
いっその事、吐いてしまった方がスッキリするのだろうが、こんな渋滞した山道で嘔吐など日本人的感覚の私としては有り得ない。
さりげなく山道脇のスペースに腰掛け、さも「高山病?休憩しているだけですよ」という雰囲気を装いながら、満月を見上げて気をそらす。(ダメな見栄根性)
いつのまにかグッタリと寝ていた。
目を覚ますと登山渋滞はすっかり収まっていたが、高山病の症状は依然残っている。
そして寒い。物凄く寒い。
ガタガタと震えるこの状況に、山頂は諦めて、体を温めるためにも下山を開始する。
高山病回復のために一刻も早く標高を下げよう。
吐き気に悩まされながらも七合目まで下り、小屋から少し離れた誰もいない場所でツェルトにくるまってビバークする事にした。
病気の動物がひとり静かに過ごすのと同じだ。
少々惨めな気分だが、少し眠った方がいい。
雨も降らないだろうし、ココなら御来光も拝める位置だ。
自分自身に対する失望感を払拭するための山行だったのに、こんな結末になるとはな。
それにしても、慎重で準備万端だった私は山頂に辿り着けずこの有り様。
それに引き換え、ヘッドランプを持たず、短パンでスニーカー装備の方が登頂とは・・・これがライト&ファストか。(たぶん違います)
※海外の方でもしっかりと装備した方は当然います。
周囲が薄明かるくなって目が覚めた。
日の出の方面には雲が掛かり、御来光を拝めそうにない。
それでも、目の前に広がる景色を眺めながら、今回の山行をしみじみと振り返る位に体調は回復していた。
目覚めて最初に目にしたのは空。
開放的な山中に身を置き、広大な景色を前にしての目覚めは想像以上の清々しさだった。
この景色に救われた感じ。
帰りは須走口登山道の『砂走り』で早々と下山。
今回は、心肺機能の弱さを自覚して注意深く自分のペースを守っていたが、結果的に高山病が発症してしまい、傍から見ると無謀登山と叩かれる内容だったかもしれない。
「自分は高山病になりやすい」と、必要以上に意識し過ぎるのもダメかな。
用意周到で周囲にも配慮した登山。
早さを競う競争登山。
装備云々よりも純粋に楽しむ登山。
共通して言えるのは、己を知らないと出来ないって事か。