何やら賑やかになって起床。
外では御来光を見るために多くの登山者が行動を始めていた。
起床すると体調は良くも悪くもなっていない。
つまり、昨日とたいして変わらない。
早朝出発で混雑しない時間帯に大キレットに突入する予定だったが、この体調では山道が渋滞する時間になってしまうのは免れない。
とりあえず時間は気にせず、ゆっくりとでも大キレットの入り口となる北穂高岳まで行ってみる事にする。
辛うじて食べたいと思える果物とたっぷりの水分をとってから、霜の降りたテントを素早く撤収し、御来光を待たずに北穂高岳へ向かって出発した。
【大キレットのルート】
大キレットは南岳から南下するルートが一般的とされています。
(※北穂高岳へ登り返す箇所が下るよりもラクだそうです)
そのため、山道が狭く譲り合いが必要な箇所では、南下してくる登山者優先になりやすくなります。
かなり冷え込んだのか、足下の岩にも霜が降りて滑りやすくなっている。
この先に待ち構えている急峻な岩場も危険度が増しているだろうと予想して、より足下の状況に注意を払いながら、先ずは涸沢岳へ。
慎重な足取りで到着した涸沢岳は、既に御来光待ちの登山者で埋め尽くされている。
その合間を縫って山頂に到達すると同時に御来光が射す。
なんてナイスなタイミングなのだろう。
まるで私の到着を待っていたかのようだ。
ポジティブな思考で御来光を満喫し、意気揚々と再出発したものの、昨日に引き続き乱れやすい呼吸は相変わらず。
心肺機能が少しも好転していない我が身にちょっとイラッとする。(ポジティブどうした)
少し歩くと、急峻な岩場を最低鞍部まで下る最初のクサリ場が現れた。
今回のルートでは大キレットだけがメインではなく、涸沢カール上に並ぶ険しい岩稜地帯も要注意な危険ポイントとなる。
そんな危険な下りの始まりとなるクサリ場は、私と同じように大キレットを越えて槍ヶ岳を目指す登山者でプチ渋滞となっていた。
大キレット越えを含む、槍穂高縦走を目指す登山者のほとんどは、何かしらの自信を持って挑んでいるはず。
現時点で足取りがもっとも遅いのは、呼吸を整えるために立ち止まる事の多い私であるのは間違いない。
高度による心肺機能低下さえなければ・・・と思っても、実際ゆっくりな歩みである事を私自身認めざるを得ない。
意味のない見栄は張らずに己の状態を認めなければ。
焦りは禁物。
後続登山者に先を譲り、呼吸を整えておく。
ただ、次から次へとひっきりなしに現れる登山者を待っていては、何時まで経っても先に進めず埒があかない。
休憩もいい加減にしてクサリ場を下り始める。
足場は狭く、高度感もある。
一般登山道にある多くのクサリ場は、多少の経験があればクサリに頼らず通過できるのだが、私レベルではつい頼りたくなる怖さがあった。
テント泊装備の荷物もここでは大きな障害となり、背面への注意も怠る訳にはいかない。
心肺機能こそ頼りないが、我が身を信じて一歩一手と確実に下る。
ヒヤリとする事なく岩場を下り終え、改めてルートを見上げてみるとまさに崖。
涸沢岳から最低鞍部区間の危険度は、これまで体験したクサリ場において間違いなく上位に属しそうだ。
無事に涸沢岳を下り、涸沢カールからの登山道となる南稜ルートに合流。
涸沢カールに張られた無数のテントに加え、充実した山小屋もある南稜ルートからの登山者は段違いに多く、急に賑やかになった。
ここからは、ある程度整備された歩きやすい山道となり、先程までの緊張が一端ゆるむ。
ポワーンとした気分で一息つきながら、登山者でひしめき合う北穂高岳に到着した。
この先がいよいよ大キレットだ。
すぐ下にある北穂高小屋からは大キレットが一望できる。
持参した双眼鏡でその様子を確認すると、上部からは急峻過ぎて下りの山道が見えず、300m程下ったところから『飛騨泣き』『長谷川ピーク』と細い岩稜帯が続き、その先に南岳へ登り返す岩壁が見える。
そして奥には槍ヶ岳が雄壮にそびえ立ってている。
私にとっての不安は、実体験の伴わない『恐怖』から創られる事が多い。
未知の恐怖。
失敗したくない、恥をかきたくない、痛い思いをしたくない、他人に迷惑をかけたくない。
もしも・・・と最悪の事態を想像すれば、いとも簡単にあらゆる種類の恐怖が沸き上がる。
こうして、自ら創造した『恐怖』で不安感を煽り、最終的に安全で守られた道、即ち『何もしない』選択をしようとする。
過酷な印象の漂う大キレット越えに挑戦しようとしている、まさに今がそうだ。
だが、私自身、最大のウソつきは私自身である事を(悲しいかな)知っている。
同時にウソの達者な臆病者である事も(悲しいかな)知っている。
臆病な私が主張する安全で守られた道も実感のない幻想にすぎない。
これまでは、小さな保身のために創られた大きな幻想に騙される事も多かったが、今は違う。
山歩きを通じて本心を見抜く力が身に付いた(気がする)のだ。
フフフ、残念だったな、臆病サイドの私よ。
だが、その臆病さもまた必要。
単純な勢いだけではなく、客観的に判断できる冷静さを維持するためにも『臆病さ』は無くてはならない重要な要素だ。
今時点の心肺機能は頼りなくても筋力に問題はない。
天候も安定しているし、時間をかけてペースを守ればいける。
冷静な判断も『臆病さ』あってこそ。
「どうやらキサマの力が必要なようだな」
「しょうがねぇ、付き合ってやるか」
ガチィッ!(握手音)
こんな、少年漫画的な展開が脳内で繰り広げられて己と和解。
前置きが長くなったが身支度を整えて、いざ大キレット越えに出発だ。
まずは急峻な岩場を下りる。
足元には小さめの岩がゴロゴロしており、落とさないように注意しなければならない。
下りる程にその勾配はきつくなり、『岩を落とさない』+『自分が落ちない』ように心掛ける。
眼下に見えるのは、『飛騨泣き』『長谷川ピーク』の岩場に張り付く人の列。
その列がこちらに向かってジリジリと向かってきている。
この様子では、すんなり下れそうにない。
当然、団体の方もいるだろうから、通過待ちの時間は結構掛かりそうだ。
まあ、心肺機能が低下している私としては、待ちは苦にならない。
お互い、ゆっくり確実に通過できればそれが一番。
続々と登って来る登山者をかわしながら少しずつ下り、ようやく『A沢のコル』まで下りてきた。
標高を下げた事で心配機能の回復を期待していたが、残念ながら全く変化ナシ。
少しでも登りになるとテキメンに呼吸が乱れる私の状態。
この先が『飛騨泣き』の難所か・・・と少々不安げに思っていたら、既に通り過ぎていた事が発覚した。
確かにクサリ場やホールド用のボルトが刺さっている岩場はあった。
しかし、「さあ、泣け!」と言わんばかりに『飛騨泣き』の道標が掲げられていると勝手に思い込んでいたため、知らない間に『危険度の高い名も無き岩場』として通過していた。
何にしても無事だからOK。
それならば、次は『長谷川ピーク』だ。
本日は飛騨側から吹き上げる風も弱く、今朝まで凍っていた岩場もすっかり溶けて乾いている。
大キレット通過には好条件だ。
それでも、長谷川ピークから下りてくる登山者の多くは「怖かった・・・」と口々に漏らしている。
恐らく高度感が半端ないのだろうと想像し、気を引き締めて長谷川ピークへ。
難なく『Hピーク』とペンキで書かれた岩場に到着した。
確かに危険に変わりはないが、ルート整備がしっかりしているお陰もあって、比較的怖さを感じなかった。
午前中に通過した涸沢岳付近の岩場で、恐さの感覚がバカになっていたのかもしれない。
何にしてもここも無事だからOK。
ルート整備がしっかりしているので安心感があります。
それよりも私の場合は心肺機能の問題。
まずは『Hピーク』の岩場に寝転がって呼吸を整える。
私にとっては、ここからが大キレット地獄の始まりとなった。
ここからは山道が歩きやすくなる代わりに多少のアップダウンが続く。
少し登って呼吸を整え、また少し登って呼吸を整える。
下りになると多少は楽になるが、鞍部まで下ってやはり呼吸を整える。
そうこうしている内に後続の登山者に次々と追い越され、時間ばかりが過ぎてゆく。
今や後続の登山者の気配は全くない。
大キレットの底にポツリと取り残された感じ。
ガスも上がってきて、飛騨側から吹き上げる風も冷たくなってきた。
休憩ばかりが多く筋力を使っていないため、汗をかくどころか体が一向に暖まらない。
何だか精神的に辛い。
そんな暗い気分のまま、最後となる南岳への取り付き点までやって来た。
念のため大キレットのスタート地点である北穂高小屋から、最後の登りのルートを双眼鏡で確認している。
ハシゴを2つといくらかの岩場を登り、木で整備された階段を登れば大キレットは終了し、南岳小屋付近に到着の予定となる。
呼吸を整えながらいけば、大キレットを越えられるのは間違いない。
だが何だろう。
物凄い敗北感だ。
楽勝だったと勝ち誇りたかった訳ではない。
呼吸にばかり気を取られ、大キレットたる山道の雰囲気を楽しめていないのが悔しいばかりだ。
ほぼ垂直なハシゴを登り、岩場を登る。
もちろん休憩を頻繁に挟みながら。
大キレット終了。
達成感はない。
あるのは敗北感のみ。
トボトボと南岳小屋へ続く山道を登っていると、山道整備されている二人のおじさんに出会った。
山道整備お疲れ様です。
というか、心肺機能がまるでダメな今の私では、歩きやすい山道は非常にありがたいです。
こんな率直な気持ちを伝えて、作業されている場所の少し上で、本日、何十回目かの休憩をとる。
おじさん達も丁度作業が終わり、一緒に休憩する事となった。
おもむろに出された煎餅をご馳走になりつつ話をしていると、ここまでの苦労が報われる嬉しいお言葉を頂いた。
「息があがりそうになったら無理しないで休憩、それで良かったんだよ」
このおじさん達の本職は山岳ガイドで、過去に涸沢小屋を40年もの間管理していた、正真正銘「北アルプスは庭」と言っても差し支えない方達だった。
こんな方達に評価された(励まされた?)私としては、「大キレットに挑戦して良かったですよ!」とホクホク顔だ。
我ながら恥ずかしい程に単純だが。
その他にも高度順応の話や、お勧めのルート等、山に関する多くの話を伺った。
その中で、本日の槍ヶ岳の混み具合も話に出た。
北穂高小屋から双眼鏡で槍ヶ岳を眺めた時、肩の小屋から山頂まで長蛇の列となっているのを目撃している。
その登山者の列は、大人気ラーメン店の比ではない程だった。
実はこの様子を見て、本日の宿泊先を槍ヶ岳山荘から南岳小屋へと変更していた。
南岳小屋に宿泊しているおじさん達からは「南岳小屋のテン場はスペースに余裕あり」との情報をもらい、良い判断だったとニヤリとする。
【槍ヶ岳:長蛇の列情報】
槍ヶ岳登頂のために肩の小屋前から長蛇の列ができ、ある方は往復5時間かかったとか。(通常2~30分)
昼前にはテン場も一杯となり、後着の登山者は殺生ヒュッテまで下りる羽目になったそうです。
御苦労様です・・・ニヤリ。(おい)
山岳ガイドのおじさん達との会話で、暗かった気分もすっかり解消され、「ハレルヤ~」と言い出す勢いの晴れやかさで南岳小屋に到着した。
※私は無宗教です。
売店でヨメへの土産を購入し、悠々とテントを設営。
ただ、高度傷害の症状は抜けず、いまだに食欲はわかない。
そこで、無理せず食べたいと思えるモノだけ食べる事にした。
ソーセージ、ほうじ茶、そしてかっぱえびせん。
通常考えると謎なチョイスだが、この時ばかりは大満足の夕食となった。
最後の目的地だった槍ヶ岳へのスケジュールは変更となり、明日は南岳から天狗原経由で槍沢、上高地へと下山する。
槍に未練はナシ。
あの混み具合を目の当たりにしてはねぇ。
ソーセージ、ほうじ茶、そしてかっぱえびせん。謎のチョイス。
夜、外に出る。
空を見上げると星しかない。
それは物凄い星の数。
天の川も延びるこの星空を見上げて、穂高連峰、大キレット越えの達成感を静かに感じ取った。