ある日の事、知人からハーネスとカラビナを借りてきたヨメ。
これで妙義山を縦走できる、と豪語している。
え?ザイルは?使い方は大丈夫?
やれやれ、典型的な形から入るタイプだな。
使い方のわからない道具ほど役に立たないモノはない。
とは言え、表妙義の縦走は私も気になっているルート。
ザイルなどの装備がなくても縦走している記録はちらほらあるようだし、ハーネスを付けてそれっぽく歩けばヨメも満足するだろ。
いい機会だから歩きに行ってみよう。
前日の夜に道の駅みょうぎで車中泊。
地元のやんちゃ盛りの若人たちが必要以上にふかすエンジン音を聞きながら睡眠をとる。
翌朝、日の出の時刻に起床し表妙義の縦走スタートだ。
妙義山は日本三大奇勝である石門群をはじめとする付近一帯の総称で、その中でも南側の表妙義、北側の裏妙義に区分される。今回歩くのは、妙義神社から登る表妙義。
ちなみに1年前に登った『丁須の頭』は裏妙義側となる。
表裏どちらの稜線にも共通して言えることは、ヤセ尾根、岩稜、クサリ場。
アップダウンの激しい稜線上には危険箇所が多数存在し、重大な遭難事故も少なくない油断のならないルートなのだ。
ヘルメットや自己確保用の装備は持っていくにしても、ヨメも同行しているので状況を見て適時行動する事にしよう。
まずは妙義神社から『大の字』まで登る。
駐車場からも見える『大の字』のオブジェクトは、妙義大権現の『大』を取ったモノらしい。
何故、『大』の文字をチョイスしたのかは謎だ。
『大の字』から少し進むと、稜線へ通ずる分岐点が現れる。
分岐点には『キケン、上級者コース』の文字。さて、気を引き締めていくか。
少しばかり登ると『奥の院』に出た。
洞窟のように岩場に囲まれ、その奥には石碑と、おそらく妙義大権現だろう石像が祀られていた。
上部の岩の隙間からは光が差し込み雰囲気はあるのだが、ただただ静寂な空気だけが流れている不思議な空間だった。
静けさに浄化されつつ参拝し、いよいよ本格的なクサリ場に取り掛かる。
ヘルメットを着用し、念のために自己確保用の装備を用意する。
独学だが段階を踏んで経験を積み重ねた結果か、ちょっとサマになっている気がする。
ハーネスを装着しているヨメもそれなりにサマになっていて本人も満足そうだ。
最初から難所の『奥の院』横のクサリ場は三連30メートル。
日陰に位置するため、岩が湿っている箇所もありスリップには要注意だ。
クサリだけに頼らず、足を使って押し上げるように登る。
滑りそうな足場の怖さはあっても、確実な手元足元を確保していれば意外と行ける。
この30mのクサリ場を登った調子で、その後のクサリ場も難なくこなし、しばらく登り続けると稜線上にある『見晴』に到達した。
ここからは標高1000m程度でも断崖絶壁ならではの開けた景色を楽しめる。
景色を眺めながら狭い稜線を進むと、『ビビリ岩』のクサリ場に出る。
登り始めこそ斜度はあるが、すぐになだらかになるため危険な感じはあまりしない。『ビビリ岩』の上に立てば、周囲の見通しの良さもあって爽快感は抜群だ。
ちなみに『びびる』は現代用語かと思いきや、平安時代から使われている古い言葉だそうだ。
『ビビリ岩』を越えてしばらく進むと、今度は御嶽三社大神の石碑がある『大のぞき』。もう、名所の連続にテンションも上がる。
『大のぞき』からスベリ台状の30mの長いクサリの下降途中。
『大のぞき』からはスベリ台状の30mの長いクサリ場を一気に下る。
雨の日などは本当にスベリ台と化して、危険の度合いがガラリと変わりそうな箇所だ。
『奥の院』から名所、クサリ場の連続で、既に結構な充実感を味わえている。
しかし、表妙義のハイライトは『鷹戻し』と呼ばれる、ほぼ垂直のクサリ場とハシゴを登る50mの岩壁だ。
この難所越えのためにもテンションは押さえつつ、体力を温存しておこう。
表妙義最高地点の相馬岳からは茨尾根(ばらおね)伝いに下ってゆく。
目立った難所はなく、足元に注意しながら下れば問題なし。
腹の虫が鳴き始めたので、堀切(ほっきり)の分岐点を越えた山道脇で昼食を取る事にする。
どうやらヨメはこの昼食を心待ちにしていたようで、大事に持ってきたベーグルを前にウキウキしている。
これから向かう『鷹戻し』には全く感心がないようだ。
と、次の瞬間、悲鳴を上げるヨメ。
これまでのクサリ場をモノともしなかったヨメが悲鳴を上げるとは何事?!と思いヨメを見ると、崖の下を覗き込んで半べそをかいている。
崖の下からは、てーん、ててーんと、ベーグルらしきモノが転がり落ちていく音だけが聞こえる。
ベーグルを追って今にも崖を下りんばかりの勢いのヨメを制止し、代わりに私のベーグルを食べてもらうが、お気に召さないようで相当ガッカリした様子。それはもう、全食糧を入れたザックを滑落させた山岳小説のクライマーの如しだ。
それでもむっしむっしと私のベーグルを食べるヨメ。
女心・・・と、思いつつ、これ以上ベーグルの事は触れないでおく。
腹の虫も収まったところで表妙義縦走を再開。
表妙義最大の難所である『鷹戻しの頭』のそそりたつ岩壁。
木々の切れ目からは、表妙義最大の難所である『鷹戻しの頭』のそそりたつ岩壁が間近に迫ってくる。
途中、稜線から少し外れて樹林帯を進むと、クサリのかかったトラバース箇所に出た。
日陰の岩場でいかにも滑りそうに湿っている。ただ、仮に滑ってもすぐ下で止まりそうな斜度だ。
私が先にひょいひょいと渡るが、ヨメは滑る事に怯えてなかなか渡れない。怯えながらの行動は危なっかしくて、側から見ていると手に汗握ってしまう。
最終的にはスリングを通して自己確保しながら渡る。
どうした?ヨメ。
ベーグル切れか?
その後、しばらく歩いて本日のハイライトである『鷹戻し』の取り付きに到着した。
取り付きには先行していた登山者がおり、「ハシゴまで登ったけど、その先が恐ろしかったので引き返します・・・お気を付けて」と言い残して堀切分岐点へと戻っていった。
どうやら、これまでのクサリ場とは訳が違うらしい。
裏妙義方面では遭難事故があったのか、上空をヘリコプターが旋回し、下方では救急車のサイレンの音が通りすぎる。
何とも不吉な・・・。
しかし、このために温存してきた体力。
腕力、握力全開で登ってみよう。
最初のクサリ場は上部の岩が若干かぶさってハング気味。
それでもまだ地面に近いこともあって気はラクだ。
勢いで登らず、三点支持の基本を守って確実なホールドを探りつつ登る。
最初のクサリ場を登り切り、続いてハシゴを登る。
ここからのクサリ場が核心部だ。
垂直に近い斜度の岩場に垂れ下がる長いクサリ。そして何よりもその高度感たるや凄まじい。
登っている最中、「オレ、休暇に来てるんだよな」と、命懸けの遊びに疑問を抱いてしまう程の高度感だ。
しかし、怖いと思いつつ自分の手足に絶対的な信頼を感じる不思議な感覚もあった。
これまで当たり前のように動かしてきた自分の身体を、この生死に直結する状況で改めて信頼する。何だか奇妙な感じだ。
『鷹戻し』の最上部から下を覗き込む。見えない・・・。
マイペースで確実に登り、『鷹戻し』の最上部に到達。
自己確保して、今度はヨメが登ってくるのを待つ。
先程のトラバースの事もあり、何だか待っている方がハラハラしてしまう。
そんな私の心配をよそに、ヨメはケロっとした表情で登ってきた。
先程のトラバースより、この高度感の方が遥かに怖いと思うのだが・・・女心は読めない。
登ったら下りる。
『鷹戻しの頭』に登ったのだから下りねばならない。
『鷹戻しの頭』から金洞山方面の下り。アブミのお世話になりました。
金洞山方面の下りはルンゼ内で二段になったクサリ場。
ここもほぼ垂直で、下りの足掛かりを探すのが大変な難所だ。
途中に設置されていたアブミも活用させてもらい何とか下りる。
個人的な印象として、この辺りのクサリ場の危険度は他の箇所とは段違いな感じがする。
しばらく歩くと、第四石門への下降点に到着。
中之岳までいく予定にしていたが、時間的に遅くなりそうなので今日はここまでにして下山する事に。
そわそわしていたヨメは、ロープが張られた急坂をぴゅーっと下っていってしまった。
私も続いて第四石門へと下山。
思い返せば以前から気になっていた表妙義の稜線で高度感とクサリ場を満喫。
低山ながら西上州ならではの稜線歩きに大満足の山行だったな。
第四石門前にて、八千代市『cafeふくろう』をヨロシク。
一方ヨメは「ベーグル・・・」と呟いている。
まだ落ち込んでいたのか?
表妙義の稜線や『鷹戻し』の感想は?
まさか転がり落ちたベーグルを探しているのか!?
そもそもそのハーネスは何のために借りてきたのだ!?
これが女心・・・か。